かつての日本では、服装の流行は人々の意思と工夫から自然に生まれていた。昭和三十五年を境に、その姿は大きく変わる。戦後の家庭ではミシンが身近な存在であり、各地には洋裁学校があり、女性たちは自らの手で服を仕立て、身の回りの人々とともに新しい形やデザインを試みていた。そこには「自分たちがこう着たい」という自主的な流行が息づいていた。
しかし、ミシンを使う習慣が失われ、洋裁学校も次第に姿を消す頃から、流行は個々の意思よりも商業資本の企画に大きく左右されるようになった。いつしか「今年は何が流行るか」が、前もって宣言されるようになり、服装は市場の計画に沿って大量に供給される商品へと変わっていった。流行は「作られるもの」となり、そこに人間の意思や創意は次第にかすんでいったのである。